著者:早島天来(早島正雄)
刊行:早岛妙听
解说:林中鹏
出版社:日本道観出版局
出版日期:2011年3月3日
内容推荐
:为纪念早岛天来宗师诞辰一百周年特此出版《定本 老子道德经的解读》一书。
早岛天来大师一生致力于道学精髓之理论与实践,修行内丹和导引,领悟了"道"之深奥,用悟性去解读老子,并希望解读出任何人都可以理解的老子。
著名中医文化学者林中鹏教授对此给予高度评价:"在近代历史中,有很多中国人对老子注批注过,但是却未能从'天人合一'的角度作过这么深刻的注解。""天来大师不但在道学上和哲学范畴上去理解老子,还作为得养生之道者,较全面的真实的领悟老子,这是天来大师能够很流畅地解说老子之本质所在。"
第一章 人之道不是固定的
道可道,非常道。名可名,非常名。
无名,天地之始。有名,万物之母。
故常无欲以观其妙,常有欲以观其徼。
此两者同出而异名。同谓之玄。
玄之又玄,众妙之门。
这一章非常重要,它对贯穿于整个八十一章的老子思想进行了总结。要正确理解这一章,
需从如何解释开头的“道”字这一问题着手。
道分“天道”和“人道”。所谓天道,老子解释为:自以为聪明的人类的智慧所不能到
达的自然无为的道。所谓人道,就是儒教训诫人们的“不该做什么”之道。老子第一章
里的“道”指的是“人道”,就是老子所说的“人命名的道,不是天道,不是永远不变的道”。
把它归结到道德也好,常识也好,归根结底都是人定出来的。如此被束缚在人为的自我规范
中,自己苦累自己的就是人类。
那么,这一自我规范是绝对的吗?否。比如说,根据国家和民族的不同,习惯和思考方
式就会完全不同。父母与子女的关系或与同事的关系也一样,父母与子女关系不好,归根结
底还是成长的环境和教育不同所致。职场也一样,一代又一代人的价值观的差异也是没有办
法改变的事情。如果不注意这些,以“以自己的观念至高无上”去和对方相处的话,肯定会
引起冲突或中断交往。
所谓人道,从某些意义上说,就是指仅数十年就改变的东西。首当其冲的就是执政者制
定的规范,也就是我们所说的法律。“朝令夕改”这句熟语,说的就是人为的规范是如何易
于变换。
老子认为该如何生活呢?这需要详细解释,但其要点就是无为自然的生活方式。换言之,
就是放弃固执于人为之道而自己苦累自己的愚蠢的观念,如果总认为自己正确,那么谁会认
为自己不正确呢?
人们从古代就开始追求真理,很多哲学家也创立了各种学说,但这其中到底有没有所谓
的真理呢?即使对伟大的哲学家康德、黑格尔等的学说也有同样的疑问。宗教也是如此。现
在世界上很多纷争都跟宗教有瓜葛,从中可见宗教所说的道是多么虚无。
常听到有人说,老子的学说既否定道德又否定常识。这是一种误解。实践老子学说的道
家学派并非如此,而是强调不固执。道家把这称为放弃我执。因为人们拘泥于各种事情而变
得苦累,如果抛弃执着,人生就会变得快乐。
对“名可名……”这段话,如果明白了道的含义就不用解释了。所谓名,也有语言的意
思,不管是名还是语言,都是人类出现后才有的东西,理解为同道相辅相成的另一面就可以。
对于“无名天地之始……”这段话,老子说的是万物的生生息息:“天下万物生于有,
有生于无(第四十章)”,老子的“无的哲学”是说,探究有,结果发现在此之先只有未知和
无限,唯有这一“无”,才是掌控万物生息的根源。而且,“有”还具有返回“无”的作用。
如果懂得无是原本这一道理,就再快乐不过了。无所有、无我执、无差别这一老子思
想,就是产生于这一有无同根之处。这一有无浑然一体的世界就是这所谓的“玄”。玄就是
“玄关”的意思,“玄而又玄”是说象夜空一样广柔无垠,从这里产生了万物。
老子道徳経は、中国の三大古典の一つであり、その中でも最も優れた哲学書であるといわれております。そしてたった五千言の中に説かれている哲学の難解さと、興味深さは、これまで本場中国でも三千を越える註釈書が出版されていることを見てもわかります。また欧米各国でもバイブルの次に多くの翻訳が出版されております。
この東洋の叡智を、今から二十二年前に早島天來大先生がわかりやすく解説し、私達の手元まで引き下ろしてくれたのです。実践してこそ初めて意味のある、というタオイズムの哲学は、この早島天來大先生の『「老子道徳経」の読み方』によって、だれにでも理解でき、実践できる、わかりやすい哲学へと変身したといえるでしょう。
このたび、早島天來大先生御生誕百周年を迎えるにあたり、日本道観ではその日を記念して、今から二十二年前に出版された『「老子道徳経」の読み方』を、よりしっかりとした定本として調え、日本道観出版より三月三日出版することができる運びとなりましたことは、大変嬉しく思います。
ではここに、第一章の内容をご紹介しましょう。
2011年3月
日本道観副住持道長 早島妙聴
道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観(み)んと欲し、常に有はもってその徼(きょう)を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂(い)う。玄のまた玄衆妙の門なり。
一章は、全八十一章に一貫して流れる老子の思想を総括する最も重要な章である。この章を正しく理解するには、冒頭の「道」をどう解釈するかにかかっている。
道には「天の道」と「人の道」がある。天の道とは、老子が説くところの、小賢(こざか)しい人知の及ばない無為自然の道であり、人の道とは、儒教などが説く、いわゆる“べからず集”の道だ。
一章でいう道は、この「人の道」をさす。つまり「人が道と名づけた道は、天の道ではない。だから永遠不変の道ではない」と、老子はいっているのだ。
道徳にしても常識にしても、しょせんは人がつくったものだ。そうした人為の自己規範に縛られて、自分自身で苦しんでいるのが人間なのだ。
では、その自己規範は絶対的なものだろうか。答えは「ノー」である。たとえば、国や民族が違えば習慣も考え方も全部違ってくる。親子や職場の人間関係も同様で、親子の断絶というが、それは煎じつめれば育った環境や教育の差に過ぎない。
職場においても、世代による価値観の差はいかんともし難いものである。そこに気づかずに、自分の考え方を至上と思って相手に接すれば、断絶や衝突が起きるのは当然だろう。
人の道とは、このようにわずか数年の間にこれほど変わってくるものである。その最たるものが権力者による規範、すなわち法律といってよいだろう。「朝令暮改」とよくいわれるが、人為の規範がいかに移り気であるかを物語っている。
では、老子はどんな生き方をせよといっているのか。このことについてはおいおい述べていくが、要は無為自然の生き方、換言すれば、人為の道に固執して自分自身を苦しめるような愚かな考え方を放かすことだ。自分の考え方が正論だと思えば、相手も同じように考えるのは当然だろう。
人間は古代ギリシャの時代から真理を求め、多くの哲学者がいろいろな学説を打ち立ててきたが、はたしてその中に真理といわれるものがあっただろうか。偉大な哲学者といわれるカント、ヘーゲル、マルクスにしても然りである。宗教も然り。今日世界で起きている紛争の多くが、宗教がらみであることを見ても、その説く道の虚しさが分かるだろう。
よく「老子は道徳も常識も否定するのか」という人がいるが、これも間違いだ。老子の思想を実践する道家には、否定はない。固執しないことが大切なのである。道家では、これを「我執を放かす」という。人間は何事もこだわるから苦しくなるのであって、執着を捨てれば人生は楽しくなる。
「名の名とすべきは……」は、道が分かればもう説明するまでもないだろう。名とは“言葉”という意味もあるが、名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。道の対句として受け止めればよい。
「無名は天地の始め……」は、万物の生々を説いたもので、「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」(四十章)という、老子の「無の思想」を表現したものだ。
有であることをとことん突きつめていくと、その先は未知とか無限とかしかいいようのない世界になる。その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」だ。
もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はない。無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから生まれている。この有無が渾然とした世界が「玄」だ。玄とは「玄関」の意味で「玄のまた玄」は夜空のような限りない深さを示し、そこから万物が生まれてくる。
早島天来(筆名 早島正雄)著『定本「老子道徳経」の読み方』より